鈴木元氏が日本共産党100年史に関して新たな論考をFacebookに投稿

鈴木元

 日本共産党を不当に処分された鈴木元氏が、日本共産党の100年史の第4章部分に関して、新たな論考をFacebookに投稿しました。全文を転載する形でご紹介します。

第四章「民主集中制議論」での知識人の党ばなれと、新日和見主義事件での民青中央の壊滅(要旨)
 この60年代後半から70年代前半にかけて日本では「70年安保闘争」と沖縄返還闘争、大学民主化闘争、そして住民運動の高揚と革新自治体作りなどが進み、社会党・共産党をはじめとする革新勢力は大きく前進していた。しかしその陰で共産党は重大な組織問題に直面し今日に続く困難を抱え込むことになった。
 「民主集中制議論」での知識人の党ばなれ
 日本は本格的な高度成長によって70年代になると、核家族生活、個の確立や個性の尊重、そして民主主義的な社会気風の確立など、明らかに戦前とは異なる社会生活が生まれてきた。そうしたときロシア革命に由来しコミンテルン時代の民主集中制は明らかに日本社会で国民の多数を組織して、国民の意向に即して一歩一歩社会を変えて行くという政治改革を担う共産党の組織方針として適切でないことが露呈し始めていた。そうした中で藤井一行・田口冨久治等によって民主集中制の見直しが提起された。これに対して不破哲三など共産党の指導部は機関紙「赤旗」や雑誌「前衛」で「前衛党の組織論の放棄」などと攻撃し排撃した。その様子を見て知識人の間では「共産党に物を言えば、人格まで否定される攻撃を受ける」と共産党と距離を置く流れが広がり今日に続いている。
 しかし不破哲三氏が田口冨久治氏などを批判したやり方は、宮本顕治氏によって「お前も同じではないか」と30年も前に発刊した「戦後革命論争史」が党内問題を党外で論じた、自由分散主義として、1983年になって幹部会委員長である不破哲三、同じく副委員長である上田耕一郎の両名が「前衛」で自己批判書を書かされるという事態となった。ここに共産党は幹部会委員長と言えども党の組織論や革命論でコミンテルン以来の宮本の理論を超えることが出来なくなり、現代日本社会にあった創造的的探求ができない党になってしまった。


 新日和見主義事件での民青中央の壊滅
 もう一つは60年代から70年代にかけて共産党は「61年綱領」の具体化として、選挙で多数を獲得し社会を変えて行くことをより明確にした人民的議会主義をを打ち出した。そしてそれを保障する党勢拡大運動に一層力を入れていった。この方向は先に示したように理論的には正しい。しかし現場の県・地区と支部の間では数であらわされる党勢拡大・選挙の票読みに一面化させる活動傾向が生まれていった。これに対して再建全学連の初代委員長で民青中央常任委員で学生対策部長であった川上徹氏などが疑問を呈し始めていた。それに対し宮本顕治氏は「分派」の匂いを感じ、あぶりだすことも含めて民青同盟に年齢制限を持ち込んだ。これに対して圧倒的多数の民青中央委員は反対の意思表示を行った。ところが宮本顕治氏は、それを分派の動きの証拠として民青中央役員の党員にたいして党としての査問を行い200名程の中央委員の100名程の党員を処分に付すとともに、極一部例外を除いて大半の役員を年齢制限を理由にして民青中央から追放してしまった。
 こうして日本における青年運動で重要な役割を果たしていた民青中央は壊滅されてしまった。それは同時に共産党員への成長の場であり、共産党の後継者のプールを破壊することになり今日にいたる困難を作り出すことになった。最盛期24万にいた民青同盟員は、いまや倍化によって1万人の民青を目標にして活動している。
 注目すべきことは、今回の「日本共産党の百年」に、この二つの事件が全く記述されていないことである。国民との幅広い共同とかリスペクトとか言っても、藤井・加藤問題が誤りであった事を明確にしない限り、知識人の間での共産党の信頼が回復さることはないだろ。また新日和見主義事件が宮本顕治氏の度し難い猜疑心によるものであったと同時に、常任幹部会員の多数がかつて宮本氏の秘書であった人達によって占められるという家父長的党運営が、それを止められないということを露呈した事件でもあった。当時民青から追放された党員にたいして冤罪を晴らし、謝罪しない限り青年の中での党の根本的な前進はないだろう。

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