鈴木元氏がFacebookに連続して重要論考を投稿。党綱領が第8回党大会で全会一致で採択された問題と「党勢倍加運動」について考察

鈴木元

鈴木元氏が、Facebookに連続して重要な論考を投稿している。今回は、党綱領が第8回党大会で全会一致で採択された問題と「党勢倍加運動」について考察しています。
以下、全文を転載する形でご紹介します。

第3章 党綱領の全会一致での決定と「党勢倍加運動」が今日に至る失敗の要因
 1961年の第8回党大会において、現在の党綱領の原型となる「61年綱領」が全会一致で決定された。3年前の第7回党大会では1/3の代議員が反対していたので決定せず、次回8回党大会へ持ち越しとされた。そして安保闘争という国民的体験と3年に及ぶ民主的討議によって、反帝反独占の民主主義革命という革命論が全会一致で決定されたと記述されている。私も基本的にそう思うし当時の状況下では「正しい革命論」であったと思う。しかし問題はそんなに単純ではない。
 まず第一に、本当に全会一致はいいことなのか。共産党は「真理は一つであり、このことは7回大会から8回大会の経過で証明されている」と言う。しかし綱領のような基本的戦略と違って政策や方針は真理ではなく相対的選択である。議論を尽くせば一つの真理にたどり着くという問題ではない。最近のことで言えば同性結婚については党員と言えども無条件賛成などありえない。自治体や国会で態度を求められれば多数決で当面の対応を決めざるを得ないし、安楽死は死生観にかかわる問題であり多数決で決定するような問題ではなく自主投票にせざるを得ないだろう。執行部(常任幹部会)から提案された案について様々な角度からの議論をしてこそ相対的多数で決定できる。自由な討論・多数決制があってこそ政策・方針の豊かな発展がある。
もう一つは「本当に全会一致だったのか」という問題である。戦争直後の第4回党大会から第7回党大会に至る過程は日本が戦前の天皇制社会から国民主権の社会に大激変していた。そして日本の歴史上初めて外国に軍事占領されるという事態となっていた。それらに対しどう戦うかという点で党内に様々な意見があることは誰もが分かっていた。従って自由な討論を踏まえ多数決で決定して臨んだのは当然のことであった。しかし第8回大会に向けて宮本氏(顕治、当時は党書記長)が提案していた綱領草案でぼぼ一致し始めていた。そうした中で党大会代議員の選出であるが、今と同じように、地区党会議、県党会議において綱領草案に反対の人は代議員に選出されないというやり方が行われた。中央委員で反対の人は代議員に選ばれず、議決権の無い評議員として出席した。この方式がこの8回党大会以降定着させられ、それ以来60年間満場一致が続いてきた。ここには「50年問題」を克服してきた宮本氏の自信が生んだ「真理の体現者」的な思い上がりがあったと考える。
 執行部(常任幹部会)から出された政策・方針案について様々な角度からの議論をしてこそ相対的多数で決定できる。自由な討論・多数決制があってこそ政策・方針の豊かな発展がある。共産党はここを脱却しなければならない。
 この第八回党大会前のに1958年の11月に開催された第七回中央委員会総会において「党勢倍化運動」が決定され、全党員に呼びかけられ中央から「全党の同士への手紙」が出された。それは党の政治的影響に比べて余りにも党勢が小さかったので、それを打開するために決定され呼びかけられたのである。私は当時の状況の下では、「正しい決定」であったと考える。そして実際、倍化運動は成功した。しかしその成功経験から、その後、何回もの「月間」が提起された。しかし期日をきめて目標の達成を目指す運動はノルマ主義を生む危険がある。そして実際、中央がどういう言い方をしても、中央・県・地区・支部の間では数字で表される拡大が追求されやすくなり「それでいくら拡大したのか」との追求・指導がうまれた。そして当時、拡大でもてはやされていた岩手県・愛知県の県委員長が内部告発で水増し請求していたことが明らかになり処分されるという事態が起こった。それでもまだ1980年の第15回党大会までは増えたり減ったりしながら増勢してきた。しかし1980年の15回大会以来今日までは、党大会毎に減り続けてきたのである。それを反動勢力を打ち破り選挙で前進するためには130%の党勢が必要だと一面的に必要性だけを説き事実上「党勢拡大」だけを延々と提起し追求し、下部に負担を追わせ、党を疲弊させ潰している。
 この8回党大会以来の満場一致と「党勢倍化運動」は、宮本氏の成功体験の誇示が付きまとった大失敗である。しかし宮本氏に後継者指名されて書記局長・委員長になった志位和夫氏は宮本路線から抜け出せず党を破壊している。日ロ戦争の局地戦で勝利した日本軍は、太平洋戦争の時代になっても日本海海戦の大艦巨砲主義、旅順攻略の人海戦術に固執し玉砕して行ったのと同じである。「成功は失敗の下」の典型である。

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