鈴木元氏が、日本共産党の100年党史を踏まえ、党の「50年問題」についての論考をFacebookに投稿されました。人間的な総括がなされていないーーーとても重い言葉を述べていらっしゃいます。
全文を転載する形でご紹介いたします。
「日本共産党の百年」第二章、「50年問題」(要旨) 鈴木元
「50年問題」とは1950年代初頭、ソ連のスターリンと中国の毛沢東の干渉により、日本共産党が分裂させられ、徳田球一・野坂参三等の多数派が暴力行動を起こし日本共産党は社会的支持を失った事件である。
今回の「百年史」においても従来の記述・評価が踏襲された。つまり「徳田・野坂等の分派が行なったことであり、今日の党を築いた宮本顕治等に責任のある問題ではない」としている。大筋ではそうだが本当に宮本顕治等に何の責任もなかったことなのか。
スターリン下にあったコミンフォルムが「野坂等の占領下の平和革命論は間違い」との論評を掲載した時、最初に、それに賛同して「聞くべきである」と主張したのは宮本顕治等であった(だから 国際派と言われた)。徳田・野坂らは「事情を聞くべきである」との意見を表明した(したがって所感派と言われた)。しかしマッカーサーを責任者とする占領軍は日本共産党中央委員の追放を命令した時徳田・野坂は臨時中央委員会を開催して対策を立てることなく宮本顕治・袴田里見・志賀義雄等を排除して一方的に地下活動に入った。やがてス―タリン・毛沢東の指示で中国の北京に北京機関という組織(最高時2000名ぐらいの日本共産党員がいた)をつくり、そこから日本国内にたいして暴力革命路線、実際には朝鮮戦争に参加する米軍の行動を妨害するための暴力行動が中心であった。しかしそのような行動が国民に支持されるわけがなく急速に破綻し、49年総選挙で35名当選した議員はゼロとなり10万名いた共産党員は2万名余りになってしまった。徳田が1953年に亡くなったこともあり再統一の機運が広がり1955年第六回全国協議会が開かれ「再統一」した。しかしそれに先立ち宮本顕治は所感派の国内責任者であつた志田茂雄に自己批判書を提出して戻った。また開催された6全協では暴力革命路線を決めた「51年綱領は正しかった」にも同意した。そして徳田とともに北京にわたり日本国内に武装闘争を指示した野坂参三の責任を問うことなく彼を第一書記(後に議長)に就任することも認めた。徳田・野坂が暴力路線を取った時、宮本顕治等は排除されいたので暴力路線に直接の責任はない。しかし6全協を巡って宮本顕治等が取った対応について何の問題もないとは言えない。私は当時の事情(9割程の圧倒的多数が所感派)の下で再統一を実現するためには、そのような妥協もありえたと思う。しかし宮本顕治等には何の問題もないという評価では当時の共産党員が「腑に落ちた」とは思えない。事実、私の若いころ京都府委員会では圧倒的な人々は旧所感派の人々であり、公然と「宮本は勝手なことを言っている」と言う人々がいた。
そして全国的にも当時、9割近くが所感派の人々であり、国際派は1割もいるかいないかであった。敗戦後「あの戦争下、戦争と闘い、獄中18年間を耐えた人々」という評価で多くの若者が共産党に入党し闘った。それらの人々が職を失い、傷つき、ある場合は亡くなった。それを「あれは分派が行ったこと」と切って捨てるような言い方だけでいいのだろうか、圧倒的多数の党員は中央内の複雑な事情は分からなかった。それらの人々が党中央の指示と思って行動し人生を失ったのである。「党中央の指示と思って行動し、人生に傷ついた人々に現在の党中央としてお詫び申し上げる」とぐらい言えないのか。党創立100年を記念して書かれた「日本共産党の百年」である。私は、一つの歴史の節としてもう一歩踏み込んで人間的な総括をしてほしいと思ったが、皆さんはどうだろうか。
コメント
俵孝太郎氏
“日本共産党の党史を総括するうえで、触れなければならない大きな問題点があるはずではないか、という思いが筆者にはある。それに触れる前に、短い文章を紹介したい。
「日本共産党よ 死者の数を調査せよ
そして共同墓地に手厚く葬れ
革命はそれからでいい」。
昭和30=1955年に開かれた日共の第六回全国協議会、いわゆる六全協からしばらくたったころに、東京大学学生新聞の一面コラム「風声波声」に書かれた、同時代人の一部には終生忘れられぬ、痛切な字句だ。”
鈴木元さんの言われる「人間的」の話、チリ共産党がなぜ政権党になれるのか、日本共産党はなぜなれないのかという話でもあると思います。チリ共産党の歴史(wikipediaでもそれなりにわかります)を見ると、やはり同じ共産党だけに共通する歴史があるんですが、異なるところもかなりあります。武装闘争の放棄をきちんと表明していること、日本共産党のような分裂体質ではなく、統一戦線を模索するなかで闘争のありかたを考えていること、ピノチェトとたたかった女性党首は国民的人気があり、死亡時は国会議員ではなかったのに国葬扱いとなったことなどなど。
私がチリ共産党で感心したのは、ピノチェトによる弾圧の犠牲者、その妻たちのPTSDの治療に向き合ったことです。その作業は収入ももたらし、それがアルピジェラというパッチワークです。日本共産党は、戦前にせよ50年問題にせよ、こうしたことに向き合ったでしょうか。党100年史の戦前史を見てもとてもそうは思えないのです。あの女性たちを美談のように扱うのもまた、50年問題にふたをするのとコインの表裏ではないのか、そう思うのです。
俵孝太郎氏の記事のリンクを貼り忘れていました。
https://www.jihyo.co.jp/topics/tawarakoutarou98.html
とーぼ様
とても含蓄のあるコメントをありがとうございます!こういうコメントを読ませていただくと深く考えさせられると共に、何をなすべきか?も見えてくるように感じます。壮大な規模での学び直しの運動こそ必要なのかも、と感じております。本当にありがとうございます!