鈴木元氏が「防災の日」にエッセイをフェイスブックに投稿

鈴木元

鈴木元氏のフェイスブックの不具合は、どうやら解消されたようです。フェイスブック側の不具合なのか?原因は不明ですが、ともあれ、また鈴木元さんの投稿が読めるようになったのはとてもうれしいことです。
さて、そのフェイスブックに鈴木元さんが最新のエッセイを投稿されていますので、全文を転載する形でご紹介します。

今日9月1日は防災の日、関東大震災100周年の日である。
時間がないのであれこれ論評は書けないが体験的事実だけを書いておく。
1923年の関東大地震時、母の父(私の祖父)は東京銀座五丁目において日本で最初と推察されるプレイガイドを開いていて繁盛していた。事務所はその年の2月にできたばかりの丸ビルにおいていた。しかし関東大震災は銀座の店を潰した。幸い自宅と家族つまり祖父母、母の兄(私の叔父)母は命を失うことは無かった。ただ最近、気が付いたことであるが屋敷は麹町にあり甘粕が大杉栄とその妻。甥を殺した憲兵隊分署の近くであった。震災後東京の人口は4割り程減るなど到底プレイガイドの営業が成り立つような状況ではなかったので祖父の故郷である大阪に引っ越した。しかし東京ほどの市場の広さがなかっだけではなく昭和不況がおしよせプレイガイド事業は厳しく財産をー食いつぶし没落していった。これらすべての人は既に鬼籍に入っている。


それから72年たった1995年阪神大震災が起こった。今度は妻の親族が襲われた。神戸市須磨区に住んでいて義祖母は予てから「私が倒れるのが先か、この家が倒れるのが先か」と言っていたが阪神大震災の前日、脳梗塞で倒れ救急車で病院に運び込まれた。その日の夜遅く義母は義祖母の家を訪ね、あくる日に見舞うために仮眠していた。その時、阪神大震災に襲われた。家は全壊したが義母は奇跡的に箪笥の隙間に入り、命は失わず這い出し近くの小学校に避難した。私と妻は救助に行こうとしたが阪神間の鉄道・道路は全てストップしていた。そこで私の冬山用のリュックに私・妻・義母三人分の食料・水を3日分+簡易テントを入れて、京都から福知山、そこから播但線で姫路に行き、そこのホテルで泊まった。あくる日、明石市の友人の車で六甲の裏側へ行き、動き出した地下鉄で長田に入り、そこから倒れ焼けた町を須磨まで歩き義母を見つけ、義祖母を見舞った後、元来た道を戻り姫路のホテルに泊まり、あくる日、京都そして義母の家がある西宮に戻った。28年前のことである。

義祖母は入院していた病院でなくなった。義母も昨年亡くなった。そして記憶障害者の妻も昨年特別養護老人ホームに入所した。いまや記憶しているのは私だけである。

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